取手に来ました

松大を今年の3月末で辞めて、取手に帰ってきました。取手に帰ってきたのは、どうしても故郷に帰りたいと思ったからではなく、偶々、予算の範囲で買える住居が取手にあったということです。しかし、取手に帰ってきたことは、やはり、偶然というのでは済まされないものを感じることも事実です。私の住んでいるところは、寺田というところですが、子供時代この地名をすでにどこかで聞いた記憶があります。そのほか、寺原、戸頭、守谷も近所にありますが、これらの地名も同様に記憶のどこかであります。私が少年時代住んでいたところは、取手駅の東側の「新道」というところですが、少年時代、常総線に乗って、寺原だったか戸頭だったかを、嘗て一度訪れたことがあるような気がします。「新道」に住んでいた自分が、電車に乗って寺原だか戸頭の友達のうちを訪ねたような気がします。それがどういう機会で、何時だったのか、正確には思い出せないのですが、常総線の電車の窓から、沿線の家々を眺めていたような断片的な記憶があります。

この体験が、どうも変な気を起こさせるのです。この過去の断片的な記憶が、現在の自分とつながっているとは思えないのですが、さりとて、全く自分の体験ではなかったとも言い切れないような、おかしな感覚です。

確かに時間というものは、瞬間、瞬間でしか体験できず、その瞬間、瞬間も忽ちのうちに過ぎ去ってしまうものであり、その意味では過去は記憶の中にのみ存在するものでしかないといえます。だが、その記憶が、あまりに断片的で、具体的な時間や場所の記憶に乏しい時、取手にいた少年時代の自分が、今の自分とどうしてもつながらないのです。

つながらないのですが、自分の記憶の底を探っていくと、そのつながりが見いだせるかもしれない。その時自分は、何か新しい自分に出会えるかもしれない。これは予感でしかないのですが、そんな予感は取手に帰ってきたからこそ生まれたものではないかと思っています。取手に帰ってきて、昔と歩いた通りや街並みを見たとき、突然に思い出されてくることがありました。これはその光景を見なかったら、絶対に思い出されてくることのなかった記憶であることに間違いはありません。このおもいがけない体験は、自分としては意外なほど嬉しいものでした。取手に住む自分のこれからの時間が、自分の未知の部分をどう探り当ててくれるのか、期待できるような気もしています。

 

蓼科ドイツ文化ゼミナール

3月の12日から16日までの5日間、日本独文学会主催の蓼科文化ゼミナールに参加しました。この会は、ドイツからProf.を招待して、共通のテーマでいくつかの分科会や共通会議を通じてその共通テーマを掘り下げるというものです。この会議の最大のポイントはすべてドイツ語で討論がなされることで、招待される教授もドイツで現在現役で活躍中の、しかもいくつかの著書も発表しているということになっています。今回のテーマは世界/文学というテーマでミュンヘン大学のStockhammer教授を招待して、Sloterdijk、Ransmayr, Erpenbeckなど、まだ存命中の作家批評家のテキストについて議論しました。

私は、今の職場があと一年で終わるので卒業記念に参加しようということで参加したのですが、案の定、日本人の参加者のうちでは最年長の参加者でした。実は発表も申し込んだのですが、若手に発表の機会を与えてくださいということで、発表申し込みも拒否されてしまい、いくつかの会議で質問したり意見を言ったりしただけでした。
これまでこの文化ゼミナールは5回ほど参加してしてきたのですが、やはり今回で終わりだなという感慨を持ちました。なぜこのゼミに参加したのか?自分はこれまでGermanistだといってきましたが、そのGermanisitという言葉も、因果なことに、ドイツ本国の研究者に比較してどういうことになるのかなということがいつも気にならざるをえない職業なのです。それは例えば、カフカ全集の翻訳者として有名な池内紀さんといえども同じことだと思います。
ドイツ人に比べればドイツ語の読解能力、話す能力は比較するのもおかしいほど違っていることは歴然なのに、それでも自分はどの程度の読みができるかな、どの程度の議論ができるかなといつも気にせざるを得ない立場というのもつらいものですが、こうしてGermanstとして自分の定年を迎えてみると、自分が辞めずにこだわり続けてきたドイツとは何かと思わざるをえません。こう考えてみますと、自分が若いころ翻訳で読んだT.Mannやら、レコードで聴いたBrahmsの感動がどこかでずっと続いてきたのかなと思います。最近、どこでも、自分は約半世紀ドイツ語を勉強してきたと話すのですが、これだけドイツと付き合ってきて自分はどういう影響をドイツから受けたのか。いまでも暇があればインターネットでドイツのテレビを見ている自分はやはり相当にドイツ教で、相当の影響を受けているだろうと思います。その分普通の日本人の感覚からずれてしまっているのではないかと思うわけですが、文学系で影響を受けないものをやるなんてそもそもありえないので、これも結果としては良しだと思っています。

 

震災後6年

震災後6年たった。マスコミでは盛んに震災後6年の特集を組んで、被災地のその後の復興を様子を報道しているが、どこでも復興が遅れている。震災後何年というテーマはこの時期の年中行事の一環でしかない。

私たちは何事もすぐ忘れるのだ。この震災はそれでも日本人が忘れてはいけないのだと考えようとしている。

これからの日本はこのつらい記憶を背負っていくのがふさわしい。福島の原発事故は、日本に致命的な傷を与えた。致命的な傷を負った日本が、それでも生き延びようとするとき、致命的な震災の傷とこれからどうやって付き合っていくのかを考えなければどうやっても生き延びていくことはできないだろう。

韓国語のサークル

今日韓国語のサークルに行ったらめったにないことですが新人が来ていました。話しているうちにその方とはすでに10年ほど前に一度出会っていることがわかりました。韓国語をやっている人あるいは始める人は多いのですが、やはりやり続けるのは非常にむづかしいことがわかります。純粋に趣味でやるには困難が多すぎるということでしょうか。

韓国語

韓国語は始めてから10年近くになる。職場で学生をソウルに引率していくのに、まったくできないのでは困るだろうというので始めたのだ。当時,下火になりつつあったが韓流ドラマがまだ人気があったころで、結構夢中になって見た。学生のソウル引率は一回きりで終わってしまったが、なぜか韓国語の学習は続いている。今でも毎日一回はKBSのニュウスをテレビで見たりラジオで聞いている。私の主観的判断だが8割方は理解できていると思っている。完璧はなかなか難しいが、あと何年か先に9割がた理解できるようになれるだろうと思っている。8割から9割10割というのがなかなか難しいところであるが(そもそも10割というのは外国人にとってあり得ない)、語学は何といってもどれだけの期間続けられるかによるのだ。

これでよいのだ!と言えるか。

 これまで人生の意味とか、世界の意味とか考えてきたけれど、そもそも意味というのは、肯定できるものでなければそれこそ意味がない。肯定できるということは「これでよいのだ!」と納得することだ。

 若いうちはどうしようもなく欲張りなので、どうしても人と比べて欲求不満になりがちだが、年を取ると、もう先が長くないから、どこらへんで自己満足できるかを考えなければならなくなる。自分の人生の意味とは、自己満足のことだといってもいい。

 はたして、自己満足以外の満足があるのか。そんなのはないに決まっているので、なかなかこれで良いのだと言えない。年取って、体力、気力がなくなって、自己満足できないのは不幸かもしれないが、仕方がないか。