蓼科ドイツ文化ゼミナール

3月の12日から16日までの5日間、日本独文学会主催の蓼科文化ゼミナールに参加しました。この会は、ドイツからProf.を招待して、共通のテーマでいくつかの分科会や共通会議を通じてその共通テーマを掘り下げるというものです。この会議の最大のポイントはすべてドイツ語で討論がなされることで、招待される教授もドイツで現在現役で活躍中の、しかもいくつかの著書も発表しているということになっています。今回のテーマは世界/文学というテーマでミュンヘン大学のStockhammer教授を招待して、Sloterdijk、Ransmayr, Erpenbeckなど、まだ存命中の作家批評家のテキストについて議論しました。

私は、今の職場があと一年で終わるので卒業記念に参加しようということで参加したのですが、案の定、日本人の参加者のうちでは最年長の参加者でした。実は発表も申し込んだのですが、若手に発表の機会を与えてくださいということで、発表申し込みも拒否されてしまい、いくつかの会議で質問したり意見を言ったりしただけでした。
これまでこの文化ゼミナールは5回ほど参加してしてきたのですが、やはり今回で終わりだなという感慨を持ちました。なぜこのゼミに参加したのか?自分はこれまでGermanistだといってきましたが、そのGermanisitという言葉も、因果なことに、ドイツ本国の研究者に比較してどういうことになるのかなということがいつも気にならざるをえない職業なのです。それは例えば、カフカ全集の翻訳者として有名な池内紀さんといえども同じことだと思います。
ドイツ人に比べればドイツ語の読解能力、話す能力は比較するのもおかしいほど違っていることは歴然なのに、それでも自分はどの程度の読みができるかな、どの程度の議論ができるかなといつも気にせざるを得ない立場というのもつらいものですが、こうしてGermanstとして自分の定年を迎えてみると、自分が辞めずにこだわり続けてきたドイツとは何かと思わざるをえません。こう考えてみますと、自分が若いころ翻訳で読んだT.Mannやら、レコードで聴いたBrahmsの感動がどこかでずっと続いてきたのかなと思います。最近、どこでも、自分は約半世紀ドイツ語を勉強してきたと話すのですが、これだけドイツと付き合ってきて自分はどういう影響をドイツから受けたのか。いまでも暇があればインターネットでドイツのテレビを見ている自分はやはり相当にドイツ教で、相当の影響を受けているだろうと思います。その分普通の日本人の感覚からずれてしまっているのではないかと思うわけですが、文学系で影響を受けないものをやるなんてそもそもありえないので、これも結果としては良しだと思っています。