取手に来ました

松大を今年の3月末で辞めて、取手に帰ってきました。取手に帰ってきたのは、どうしても故郷に帰りたいと思ったからではなく、偶々、予算の範囲で買える住居が取手にあったということです。しかし、取手に帰ってきたことは、やはり、偶然というのでは済まされないものを感じることも事実です。私の住んでいるところは、寺田というところですが、子供時代この地名をすでにどこかで聞いた記憶があります。そのほか、寺原、戸頭、守谷も近所にありますが、これらの地名も同様に記憶のどこかであります。私が少年時代住んでいたところは、取手駅の東側の「新道」というところですが、少年時代、常総線に乗って、寺原だったか戸頭だったかを、嘗て一度訪れたことがあるような気がします。「新道」に住んでいた自分が、電車に乗って寺原だか戸頭の友達のうちを訪ねたような気がします。それがどういう機会で、何時だったのか、正確には思い出せないのですが、常総線の電車の窓から、沿線の家々を眺めていたような断片的な記憶があります。

この体験が、どうも変な気を起こさせるのです。この過去の断片的な記憶が、現在の自分とつながっているとは思えないのですが、さりとて、全く自分の体験ではなかったとも言い切れないような、おかしな感覚です。

確かに時間というものは、瞬間、瞬間でしか体験できず、その瞬間、瞬間も忽ちのうちに過ぎ去ってしまうものであり、その意味では過去は記憶の中にのみ存在するものでしかないといえます。だが、その記憶が、あまりに断片的で、具体的な時間や場所の記憶に乏しい時、取手にいた少年時代の自分が、今の自分とどうしてもつながらないのです。

つながらないのですが、自分の記憶の底を探っていくと、そのつながりが見いだせるかもしれない。その時自分は、何か新しい自分に出会えるかもしれない。これは予感でしかないのですが、そんな予感は取手に帰ってきたからこそ生まれたものではないかと思っています。取手に帰ってきて、昔と歩いた通りや街並みを見たとき、突然に思い出されてくることがありました。これはその光景を見なかったら、絶対に思い出されてくることのなかった記憶であることに間違いはありません。このおもいがけない体験は、自分としては意外なほど嬉しいものでした。取手に住む自分のこれからの時間が、自分の未知の部分をどう探り当ててくれるのか、期待できるような気もしています。